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★令和に新しい本が完成する 2019/05/05
前回の投稿が1月13日。約5ヶ月経ってしまった。そして、その5ヶ月前の投稿で、写真集づくりは終盤と書いたが、写真の選択と配置が完了したのは2日前の5月3日。終盤が5ヶ月間も続いてしまったことになる。長い。私もとても長く感じた。しかし、この本を人生のキーポイントと考えるならば、その時間の長さも許容されるのではないかと思う。少なくても私はもはやこの本にそのくらいの価値を置いている。

本づくりをしていて改めて気づいたが、私はとても欲張りな人間だと思う。この本にはカラーもデジタルも、アート的な作品もあればドキュメンタリー的な分類をされ得る作品もある。カッターナイフでスリット(切れ込み)を入れたものもあればドローイングをしたもの。ドローイング自体。フイルムを溶かした作品もある。そうした「しっちゃっかめっちゃかさ」を通常はある程度同じ傾向のものに絞り込むことで纏めて本にするものを、私はそれらを全て含めつつ、しかし大きな流れに繋がるようにしたかった。そしてそれは、沢山の試みと(失敗と成功の繰り返し)、キーになる作品を繋ぐ新た作品をこの本のために作り出すことで成功(私が納得できる段階に達成)したと考えている。正直大変すぎた。次の本はこの本のどこかしらの要素を取り出して育てることで作っていくと思う。その意味でもこの本は唯一無二無のものになる。現実的に私の年齢で一冊の本にここまでの時間をかけるのは難しいのではないかと思う。

その唯一無二の本もお金が無ければ伝えることができない。その意味でも初めてのクラウドファウンディングの成功は大きかった。まだ見ぬ私の本への投資はとても嬉しく有難い。それに報いたいという思いも強い。今回このファウンディングの為に特製のポスターやポストカードを準備している。ファウンディング自体は終わったが、まだこれらの特典のついたセットは購入(予約)して頂ける。数量に限りはあるが、ぜひチェックしてほしい。予定ではパリの方には7月、日本の方には9月には手に届くように出来たらと思う。その際にはイベントもしたいと考えている。

https://kibidango.com/project/928/shopping

この本の編集をしていて年号が平成から令和に変わった。
天皇も変わり、何もかもが変わっていく。その中で「本」は変わらない。データと違って紙に印刷されているのだから。
私自身も変わっていく。それは絶対だし、むしろ生きていくことは変わっていくことを受け入れていくことだ。
だから、私が生きていく限り、この新しい写真集「指と星」の距離感は離れていく。今この瞬間は手に触れるが、もうお目見えした頃には離れていく、1m、10m、10km、100km、1光年、100光年、、、。それはこの本を手に取る人もそうだろう。しかし、それがまた面白いのだろう。離れて行く怖さを受け入れ、そして進む。進む為にやはりこの本は必要なのだ。



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★蔵出し 2019/01/13
 写真集編集も終盤
終盤になって、少しかたずいた部屋でするように、ずっと昔の写真を確認する。
覚えているものはむしろ少数で、こんなものを作っていたのかと思い出すものの方が多い。
そしてそれも楽しい。

この作品もそう。
懐かしい。今の私だったら、眼球のイラストの部分もすべて描き込んでいたのだろう。
あの時の自分はしなかった。おそらくいつかすると思ったのだろう。
バカなことだ。そんないつかなど来ないのだから。




★夢と赤子 2019/01/08
 夢を見る。起きる。トイレに行って、お茶を飲んでいる間に忘れてしまう。どんな夢だったか、面白い夢や怖い夢(これが多い)、不思議な夢もあったと思うけど忘れてしまう。石田徹也が夢をノートに書いているのを新日曜美術館で見てから、ずっと私もそうしたいなと思っているけど出来ていない。あまりにも早く忘れてしまう。「かつて、あった」はずなのに。

忘れてしまう、という意味では赤子の指の記憶は忘れるのだろうか。熱くて、張りのあるコロコロとした感じの指。ずっと握りしめていると感じる熱の安心感。神経そのものが記憶してくれていると嬉しい。
考えてみたら、記憶はどこに宿るのか。脳だけではない。指にも、鼻にも、口にも、肌にも宿る。宿ったものを愛おしくしていたい。夢のように一瞬にして消えてしまうものもあれば、一生忘れないものもあるだろう。その一生忘れないものが、例えば赤子とずっとずっと手を握っているときに伝わる熱と張だと嬉しい。


話題を変えて、いま写真集の編集を続けている。
なかなか進まず、各方面に申し訳ない。「完成」と言えないのは、私の制作方法にある。
もちろん、一つ一つの作品を完成させるという意味で、例えばスリットシリーズは一つの紙に数百手で入れることもあり、とても時間がかかる。しかし、この意味での時間がかかるというのは、個別の作品の制作ではなく、本としての背骨のような部分である「自分がこの作品で何を伝えたいのか」というフィロソフィーの部分だ。

制作にあたって、私はまず手が動く。
出来上がった作品を見て、自分が何をこれを通してしたかったのか考える。最初に計画があって、それに沿って作品を作るというのは出来ないタイプだ。それだと予定調和になってしまう。自分の中の自己規制を突破する一番簡単な方法として、私の場合、まず手をうごかす。その意味で私はこの制作方法を気に入っているが、一方で、ちゃんと作品を考えないと作者自身も本当の意味で作品の意味を捉えられないというのがある。

今回の写真集は6年ぶりのものになる。その間に私が作ってきたもの、そこから抽出したものを並べたときに、その総体に対して自分が何をしたかったのか、なかなか言語化出来なかった。それは福笑いのように、それぞれのパーツそれぞれは良いが、集まった時に美しくなかった顔のような状態だった。6年間、加えて前の写真数より前の期間、撮ってきた写真の中か作っていくので時間がかかってしまった。ただ、本はなかなか作れるものではないので、どうかこの時間の経つのも許容してもらえたら嬉しい。

そして、やっとその文章の核が決まった。
早く書こう、夢のように忘れてしまわないように。




★憎しみと浄化 2019/01/02
 私は視野が狭い。飽きっぽい割りに、集中しだすとそれしか見えなくなる。
 憎しみと浄化も、同じ感じだ。深く憎しむし、浄化も深いものを求める。
 スリットは物語だ。細胞であり、神経。一本一本のスリットが浄化をしてくれる
 そこに美しさがあるから、それをまた共有もできる。有り難いことだ




★新年 2019/01/01
 私は昭和生まれだ。昭和の後半に生まれ、昭和が終わった時にはおぼろげな記憶で、ダイヤル式でチャンネルを変えるブラン管のテレビからその模様を見たのを覚えている。それから30年。平成が終わろうとしている。年号というのは色々意見があるのは知っているが、一人の人間の生の長さによって、時代を把握するのは悪い制度ではないと思う。(もちろん、一天皇、一元号というのは明治からの伝統だが)。昭和には昭和の匂いがあり、平成には平成の質感がある。私は生きていないが明治や大正もそういう手触りがあるのだと思う。新しい元号はおそらく生まれるだろうが、それにもいろいろな手触りが生まれるのだろう。良い手触りが良いかと思うが、意外な手触りが隠れているかもしれない

と、新聞の空欄を埋めるようなことを書いている時はダメだ。そんなのはどうでも良い。私は作品を作らないといけない。切ろう。描こう。書こう。熱を紙に宿そう。




★斜視 2018/12/24
 前回の投稿から、ちょうど3ヶ月。狙っていたわけではないのだけれど、3ヶ月があっという間に感じる。子供の時の時間と大人の時間が異なるのは皆、実体験で感じると思うけど、この坂道を転がるボールの様に加速度的に早まる感じはどこまで続くのか時にもなる。70代とかになったら1年など一瞬なのだろうか

前回の投稿でも、ゲーテの言葉の「我々には色々と分からないことがある、生き続けていけ、きっと分かっていくだろう」という一文を紹介していたが、それは知識や経験だけではなく、その根本となる身体的、肉体的な部分でもそうなのだろう。この身体には60億個だったかな、ものすごい数の細胞という生き物がいるが、それらそれぞれに人生というものがありうるのかもしれない。

そうした意味で自分が持つ斜視という障害は大きい。私はもともと目が悪い。視力も悪いが、ものに焦点を合わせるのが余り上手くないみたいで子供の時に斜視と診断を受けたことがある。普段は余り意識しないが、疲れている時とかは意識する。ものが2重に見える時、目の細胞や神経は脳のコントロールを離れて、好きな世界をみている様な感覚を受ける。おそらく2重どころか、60億個の細胞が違う世界を見ているのでは無いかと思うとワクワクすらしてくる。同じ世界はない。それは私と他の人が違う世界を見ているということと並走して、自分自身の身体もまたその内部で異なる世界を見ている。それを斜視は教えてくれているようで、そんな時はこの障害が愛おしくもある。




★つながること 2018/9/24
 日本に一時帰国したり、すぐまたパリに戻ってきたり、新しい写真集の出版が見通し立ったり(こちらはまた後でお知らせします)、また写真やドローイングを教えたりと、色々忙しくしています。そうした日々の中で、最近死について考えさせられることも増えています。ある友人は脳に腫瘍ができたかもと知らされ、別の友人の子供さんが亡くなったりと、頭の中にずっとあった概念としての死が、現実的な死の話題に置き換えられている様な感じを受けます。

高校の時読んだ小説に出てくる言葉。ゲーテの言葉の引用だが「我々には色々と分からないことがある、生き続けていけ、きっと分かっていくだろう」という一文がずっと心に残っていて、それを真実として生きてきました。でもでは「分かる前に亡くなった方は、分からないままだったのか」という疑問が最近生まれてきている。それにおそらく晴れやかな気持ちで答えるには救済的なもので、それは宗教の分野になると思うが、表現がそうした部分と重なることは避けなくても良いと思う。ただ、表現は神や解脱者ではなく、ある一人の人間から発するもの。そこだけは違うだろう。

そういえば、ちょうど近くを通ることがあって、香取慎吾さんのパリ個展をみる。確かタイトルにNAKAMAが使われていた様に思う。この絵を見に来る人は、絵のレベル的なことではなく、香取慎吾という人間のアウラを感じるために、「仲間」として来ているのだろうかとも感じる。それを桁の違う人たちとして来た彼の存在は、技術的な部分ではなく、「NAKAMA」という概念で喜びも美も、救済すら与えられるのかもしれない。そう考えればこうした展示も良いのではないかと思う。



★「匿名者のためのスピカ」
 初めての他者の本への作品提供である島本理生さんの「匿名者のためのスピカ」(文庫本)。まったく知り合いでないのに突然出版社さんからご連絡いただいた時には驚きました。指名して頂いた写真はもう6年も前の写真集「空に泳ぐ」に収録した写真。それが時間をおいてこうしてまた新たな生をもらう機会が嬉しかったです(ちなみに写真集の購入はcontactからご連絡ください)。パリに献本していただいたのでメトロで読んでいたらどんどん引き込まれていった。私はあまり物語を読むことはない人間だが、活字の中に生まれ、生きていく登場人物たちの姿に、自分自身の世界を広がるように感じ、そうしたことをできる作家が良い作家なんだろうなと感じる。このあと島本さんは直木賞を受賞される。とてもおめでたい。





★インタビュー
 2018年の元旦公開というおめでたい感じで私のインタビューが公開されました。2回に渡って校正をさせてもらったので、ちゃんとした文章になっているのが嬉しい。作品についての考えや作家になった経緯などをお話ししています。





★fotofever
2017年の一番のイベントといえばfotofever。Carrousel du Louvreはその名の通りルーブル美術館に隣接した場所にあるイベント空間。権威は分からないが、とにかく便利で誘いやすい場所。その場所で毎年fotofeverは行われているが、今回は京都のgarelly mainさまより出品。日本から友人が送ってくれたLEDのおかげで背面を照らすことができ、スリットの線を浮かび出すことができました。さらに通訳をしてくれた友人にも助けられ、色々学ぶことが多かった展示でした。